雑記10

昨日、修士論文が正式に受領されてめでたく合格となりました。

 

まあなんとかなった、、、というのが感想で、論文としてはひどいものを提出してしまったなと反省しています。

ひいひい言いながら学校に泊まり込んで、焦りと後悔で胃がなにも受け付けず、昨日体重計に乗ったら5kg痩せてました。

論文ダイエットですね。

 

自分は研究者は向いてないんだろうなあとわかった1年(というか1ヶ月)でした。

インプットした情報とか、データ、図面が面白くて仕方なかったんですけど、それをアウトプットとして論文という形にするのが本当に苦手みたいです。

真にドライに文章が書けない……ストーリーに乗せて「かたち」にする想像はできるのに……

それでも「博士課程になんで来ないんだよ」と言ってくれる助教さんや、「どうせまた何か知りたくなってこっち(アカデミック)に戻ってくるだろ、おまえは」なんて見放さずに言ってくれた先生には感謝しきりです。

 

でも、どんどん設計欲が高まってしまって、それでもできないのが精神衛生上あまりよろしくなかったです。

研究のテーマ自体は面白かったんですよ、ほんとに。

論文としては本当になんだこれはというものを書いてしまいましたけど、自分の知識は増えたし、やっぱり設計が好きなんだなとわかっただけやった意味があったし、有意義でした。

 

ということで、博士課程には行かずさっそく今日から希望の事務所で修行というか、仕事を教えてもらっています。

まだトライアルですけど……

とても忙しくなると思いますが、自分が考えたものや描いた図面が実際に「モノ」として立ち上がるなんていうとてつもない喜びがあるのでやりがいしかありません。

嘘です、不安もあります。自分がちゃんと仕事として建築をやっていけるのか。まあでもたぶん自分は建築と設計がとても好きなので大丈夫なんだろうなって無根拠に思い込んで頑張る所存です。

 

禁欲していてカメラも触っていなかったので、久しぶりにカメラ片手に撮りまわろうかなと思ってます、もうそろそろ春ですしね。

 

 

散文

あけましておめでとうございます

2020年になりました

僕も身分が変わるということで、青臭い学生の考えたことは学生のうちに供養したく思い、2017年に友達のバンドのライブで寄稿した文章をここに載せようと思います

はずかしいですが……

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

散文

 

タイトルをつけるということが苦手なのでなまえは散文とさせてもらいます。事実、散文であるし。

 

 百年後のことを考えてみる

世界はどうなっているだろう。電信柱はまだ立っているだろうか。冬はちゃんと寒いだろうか。そもそも、人間の時代は続いているだろうか。

 

 百年前のことを考えてみる

一九一七年、藤村が小説を書いていた。人間は空を飛べるようになって十四年しか経っていなかった。

 

 それから

人間は宇宙へ行き、離れていても繋がっている(錯覚に陥る)ようになった。

 

 果たして

腹をすかせた子ども 夜に浮かぶ橙

抜ける冬の青 眠る前のつよい重力

あいしてると嘯く若いおとこ

知りつつも真に受けるおんな

そっぽを向いた歯ブラシ 落ちている辞書

夜風で起きてしまう部屋

誰もが誰にもなれない街

生活を失くした漂流者たち

皆が皆に期待して

皆が皆に失望している

 

「十秒後の自分何を考えているか、想像できる?」

 

 

 水辺に集まる

ひとはなぜか水辺が好きだ。あまり変わらないからだろうか。水辺の環境や建物が変わっても、そこに川や湖があることは変わらない。変わらないものを見ると安心する。

 

 たしか

ベッドの皺 シャワーの水圧

風呂の温度、四一度

左の箪笥二段目の引き出し はみ出た靴下

おととい整理した本棚 乱雑なペン立て

天井の模様 板張りの目地

 

「今日の自分は本物」

 

 

 眺める

今日の自分は本当に昨日の自分と同じなのか、ちゃんと自分は連続しているのか、そんな疑問をひとはおそらく誰しもが気づかずに抱いている。身の回りのものやひとが、変わらないことを望んでいる。

 

 確認作業

ある日、毎日通る道に沿って建っていたビルがなくなる。そのビルについての記憶を掘り起こす。そして自分が続いていることを認め、安堵する。同時に自らの連続性の証言者がひとりいなくなったさびしさも覚える。そのふたつの感情の融合が懐かしさだと思う。

 

「未来にもなつかしさはあるのかな」

「あるよきっと」

 

 

 もどかしい

何色かわからない夕陽 自分の心持

歌 小説 映画 詩

なぜあの点だけずれているのだろう

 

 欠片のあつまり

ロシアでは狼と犬の区別がないらしい、どちらも同じ単語だそうだ。日本では蛾と蝶を区別するけれど、どこかの国では同じもの扱いなのだとも聞く。

生まれたとき、人は世界とひとつだった。比喩ではなく事実です。「ママ」という言葉を覚え、世界がママとママ以外に分かれた。

次にパパを覚え、ママとパパとそれ以外に分かれた。言葉は、世界を僕たちが理解できる欠片に切り分けてくれる。ありがたい存在です。言葉を上手に使いこなす人が素敵に見えてしまうのもわかります。

人は言葉を使ってもいるし、言葉に縛られてもいる。僕の気持ちは君には絶対に伝わらない。それぞれの言葉。

 

もし百年ののち、他人の頭の中が映像として見えるようになったり、他人と気持ちを共有できるようになったとしても、たぶん、人は言葉を捨てはしないだろう。それだけは十秒後の自分の気持ちや思考さえわからなくても言い切れる。

不完全な人間は不完全な言葉を使うしかない。みかんのびがある。

一番劣化しない記録媒体は石板らしい。今夜出会う言葉たちはきっとみんな美しいだろうから石板に刻もう。おもいけど。

雑記9

アイコン化された建物たち

 

小学校を思い浮かべてください、と言われたらおそらく大多数の人が真ん中に時計の塔が立ち、その塔を中心線とした左右線対称で窓が均一に並べられた白い箱を思い浮かべるだろう。というかそうであって欲しい。(バルコニーの有無は問わない。)

 

工場を思い浮かべてください、と言われたらギザギザ屋根に煙突が立ったもの、ではないだろうか。

 

摩天楼を思い浮かべてください、と言われたら高く高くそびえ立つガラス張りのビル。アパートを思い浮かべてください、と言われたら外階段、外部の片廊下のついた木造2階建。

 

このような、あるビルディングタイプに対して形が一対一の関係である程度想定できるもの、大雑把に言えばアイコン化された建物というのは見回せばいろいろある。

 

それぞれの機能に最適化された形態なのだからそれはその通りであり「当たり前」のことなのだけど。

 

ここでアイコニック建築の話に逸れると、コールハースやらヴェンチューリやらの方が思い浮かぶけれど、「あひる」と「装飾された小屋」についてではないので……

 

もっと単純に【小学校=凸】この形という方程式を多くの人がそれを否定も肯定もせずに受け入れているという事実が面白い。

 

凸←この形に対しては「ハコモノだ!」とか「つまらん!」みたいな批判はあるだろうが、小学校といえば凸←これであるということに批判はないだろう。

 

凹これでもなく、⬜︎これでもなく、凸これなのだ。

 

いや、もしかしたらもう若い世代はそんな形ダッセェ〜とか言い、また別の形に置き換わってるかもしれない。でもGoogleで小学校 イラストと検索すればまだまだこの形がたくさん出てくるから現役ということにする。

 

なにより面白いのは、僕の母校はそんな形をしてなかった、ということだ。さらに言えば、凸型をした小学校に通っていた人はどちらかと言えば少数派になるんじゃなかろうか。

 

すなわち、実際の建物の形と頭に刷り込まれた小学校といえばの形に乖離がある(ような気がする)。

そしてそれをあまり気にもせず僕も含め多くの人が受け入れている。まあ気にしたってしょうがないことだが。

 

果たして10年か20年後の若者に「簡単に小学校を図案化して描いてみてください」とお願いした時、どんな形を描くのか、はたまた今と変わらないのか、楽しみにしている。

 

(ちなみに言えば、僕はまだ「家といえばどんな形?」と問われれば、寄棟、切妻、時々入母屋を思い出すし紙に描く。断面でいえば例の五角形、家型というやつだ。住んでいるのは陸屋根のマンションなのに。

 

逆を言えば駅というものはあまり固定化されていない。田舎の駅はすぐ思い浮かぶが、都市の駅はほぼ毎日使っているし、体験しているのに。

いや、なんとなくは形にできるのだけど、いろんなレイヤーを重ねて輪郭がぼんやりしている感じでビタっとこれだ!というのはない。)

 

 

 

雑記8

気配の話

 

学生の設計で、特に集合住宅の時に顕著だと思うのだけど「他人の気配を感じられる暮らし」という謳い文句をよく見るように思う。

これは「近所付き合いがなくなった現代」へのカウンターパンチだったり、現状感じている言い得ぬ孤独感の解消だったりだろうと推察はできる。

 

ただ、その気配を感じることで生活がどう豊かになるのか、僕にはわからない。

壁の薄いアパートに住むこととどう違うのか、説明がないと。

 

(意訳:TAで後輩が自身の設計の説明をしているのを聴く側に回ると、ちゃんとプレゼンしないと意図がほぼほぼ伝わらないのだなということを痛感する)

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

季節の話

 

日本に四季があるなんてウソになってきた。

子どもの頃より生きるスピードが上がったせいかもしれないけれど、夏と冬しかないように感じられて仕方ない。

 

春は春一番と一緒に逃げていくし、秋は知らない間に空高く消えている。

 

まあそもそも、四季が日本特有のものだとしたらspringとautumnはどういうことなんだ?という疑問は昔からあるのだけど(なんなら秋はfallまである)

 

僕は冬が一番好きだから、冬がなくなりさえしなければ良いかなと思っている。一年中冬は嫌だが。

冬は自分の輪郭がはっきりするから好きだ。これは昔読んだ小説に書いてあって、とてもしっくりきたから以来ずっと冬が好きな理由として使っている。

 

逆を言えば、夏は「溶けるような」なんて形容があるように気温が体温近くまで上がるし、日本じゃ多湿だから纏わりついて輪郭どころの騒ぎじゃない。冷たいビールを流し込んだ喉と胃の輪郭だけがはっきりする。冬の露天風呂で肩まで浸かれば、顔だけがピリつくのと同じだ。

 

となれば人々の暮らしぶりも変わるのが必然で、どこもエアコンをガンガン稼働させている。どんなビルでも入って仕舞えば夏は涼しいし、冬はあったかい。コーヒー代200円強さえ払えばついでに外よりは快適な気温がついてくる。

 

二川幸夫は日本の古典建築は外しかない、と言った。一応僕はそれを実地で体験している。かつての祖父母の家はそれは見事な伝統木造住宅でさすがにもう心配なのだが、去る地震の際も耐えてまだなんとか建っている。

 

幼少期にあの家で過ごした夏の日はとても心地よかった。縁側で花火を見て、酒を飲んで騒いでいる親戚に可愛がってもらった。断熱なんぞ知らん!というような建ち方で建物の中と外なんてものがほぼないようにさえ思えた。家の中にいるのに外にいるような心持ち、あんな「溶け方」なら好きだ。自分や、家族や、親戚や、はたまた家の境界でさえもが無限に広がっていくような錯覚、言い換えれば妙な無根拠の安心感に近い。

 

現状今の暮らしぶりもその時に近い。どんなに夏が暑かろうと、冬が寒かろうと、我が家のエアコン嫌いは相当なもので窓を2つ開け放ったり、逆に閉じ込んで毛布を抱いてしのぐだけだ。だから玄関を開けた時にあんまり驚かないのである。家の中と変わらない。日本のどこかにまだそんな天邪鬼な家も探せばまだあるだろう。

 

(※昔はよかったという話ではない。今の建物を出た時のドラマチックな気温の転換も楽しくて好きだ。「うおっ!寒!」とか「あっついなー!」と笑ってしまうのも醍醐味だと思う。そんな両極端な暮らしのどちらかを選べる贅沢さを僕たちはまだ持っていてもいいだろう、という話だ。)

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

体の話

 

上で冷たいビールを飲むやら言っているが、ビールが流し込まれた喉や十二指腸や胃というものは体内なのだろうか。

 

口と肛門が繋がっている以上、人間は柔らかい筒でしかなく、口と肛門がボトルネックになっているだけで胃腸は体外なのかもしれない。というかたぶんそうだ。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

長年の疑問

 

「個性的でありたい」と声高に言う人たちが、なべて「どこかで見たことのある容姿や言動」に収まってしまうこと。

 

(※個性的ではいけないというのではなく、個性的とはなにか?ということです。)

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

動きの話

 

歩くことは楽しい。歩いている最中、頭はほぼ上下には動かない。

 

渋谷のスクランブル交差点に立つ。赤信号で対岸を見ると多くの人が思い思いに号砲を待っている。青だ。外国人旅行客がはしゃぎながらGoPro片手に歩き出す。布団を持って交差点の真ん中で寝るやつもいる。TSUTAYAに行くやつも、PARCOに行くやつも、キタムラに行くやつもいる。

 

日本人の平均身長が男性で170cm、女性で158cmであるらしいからまあ164cmくらいだろうか。その高さは変わらない。目線と同じであるし。となると水平線はその高さになる。スクランブル交差点で大多数の人々がずらっと並んだ時、164cmくらいの高さで一直線に頭が並んでいる。

人の姿をシルエットにしてしまう眼鏡をかけると、人と人の隙間から垣間見える景色は刻一刻と絶え間なくそして予想外に変わっていく。

 

一度の横断人数は1000人を超えるらしい、そんな話をどこかで読んだ。

1000の変数がそれぞれの固有値(体型、服装)を持ちながら、それぞれの関数で動く(コンビニで買うものを思い出して途中で引き返す人もいるかもしれない)

 

そんなものが作り出す形や景色を何度も見られるんだから面白い。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−