雑記1

 代々木公園の駅の1番出入り口から地上に出でて、左右を見渡せばそこは商店街とは呼べぬが、 たしかに商店が軒を連ねる通りがある。小田急線の代々木八幡駅を探せば、右方に建設中 の高架駅がチラと見える。そちらに足を向けると、こちらも高架になっている山手通りの中央分離帯に立つ、背の高い煙突のような通気口が天に向かって伸びている。

 仮組みの足場の孔から漏れ出る光が足元を水玉模様に照らす階段を登り、建設資材の鼻を突く匂いを嗅ぎながら線路を跨ぐ。 地上に再び降り立った時、目に飛び込んできたのは、YKTという会社の事務所建て替えの案内板だった。地上7階建、高さ27mになるという。そんな面積必要ないだろうと思いながら、その案内を写真に収める。


 また一つ対象囲う「のっぽ」が増えてしまった。しかも南面である。もしかしたら、もう2階の居間から東京を望むことも、庭に冬の暖かな陽光が存分に落ちることもないのかもしれない、と無駄に他人の生活を心配しながら、東に進み、ビルとビルの隙間 から垣間見える対象の庭の木を盗み見る。すぐ次の丁字路で左に曲がり、坂の上を眺める。特に思うことはない。造成された土地に戸建と集合住宅とクリニックがひな壇みたいに並ん でいるのみである。


 (ありがちで安心できる住宅街の街並みが、むしろ日の光、気温、湿度、大 地の傾斜、イヤホンから聞こえる音楽、匂い、自分の手足、思考に意識を向かせる。自らの肢体の外を眺めていながらにして、体内を認知している。その上、その体内認知をしている自分を外か ら観察するような入れ子状の不思議な感覚に刹那陥った。おそらく、それはこの街が自分に仕向けた罠ではなく、単に自分の性格、思考のくせであるから無視する。只、自分はどうやらデジャブのような反復風景を一瞥すると入れ子の離脱状態のようなものになるようである。)


 坂を登り、 次の十字路に到達すると存外な高さを感じる。予想以上に代々木八幡駅が遠くに低くに感じる。 東を見れば下り坂が奥へと続いていく。そしてそのまま振り返れば山手通りの広い歩道と、その奥の自動車たちが見える。車がやっとすれ違うことのできるくらいの道幅を前にして他の住宅は敷地境界線いっぱいにボリュームを置き、道との境界を壁によって規定しているのに対し、対象は接道する敷地境界からは空隙を空けている。カーポートとして使われているそのボイドは、対象の都市に対する余裕をうかがわせる。おそらく、このボイドがなく、道からすぐ立ち上がっていたら、非常に奇怪に見えていただろう。その方が面白かったなという感想も持ちながら、泰然と鎮座する対象の正面に立つ。この壁と空間の奥に東京の一等地に自分だけの庭を持つと言う、現代人の理想と夢を叶えた庭があるのだ。羨望もあるが、不毛な反骨精 神を兼ね備えた私は、少しの反発を心の中で唱えながら、ファサードに目を向ける。竣工後40年経っているとは思えないコンクリートの美しさである。雨染みや汚れが目立たない。二階のベランダと室内を繋ぐガラス製のドアからは、額に入れてある写真や絵画が見える。暖色光に照らされた壁も空間のような空気感を持って滲み見える。コンクリートジョイスト梁はその滲みの中でくっ きりと浮かび上がっている。視線を一階に移せば、重厚そうであるが同時に、薄い鉄板のようにも見えなくない両開きの玄関ドアがある。質感はコールテン鋼のようで平滑なコンクリート壁の中で唯一ざらついている。確かにここが入り口だとわかる。足音と鍵を回す音が聞こえ、私は電柱に身を隠した。製図用の筒を背負った若い男が足早に山手通りへと向かうのが見えた。おそらく施主の息子であろう。息子も建築をやっているようだ。彼が行き去ったのを確認すると、もう一度対象の前に立った。住人がいることがわかってしまうとどうしてもこれ以上見ては いけないと後ろめたい気持ちになる。カーポートの前の背の低い柵が私の侵入-訪問-を拒んでいるように思えて仕方なかった。臆病な私は、敷地に足を踏み入れることなく、最後にシャッター を切ってから、少し逃げるようにその場を去った。


 山手通りの広い歩道が私を安心させた。