2026年の建築学会賞が先日発表され、田町の建築会館にて表彰式が行われた。そして一昨晩、各作品の設計者が自らの作品について語る講演会が開かれた。youtubeで中継されたそれを大変楽しく視聴させてもらったが、非常に示唆に富む内容であったので、その時聞きながら考えたことを自分のためにもここに残しておこうと思った。ちなみに、僕は霞ヶ浦と金沢は見に行っている。屋島は機会を伺っているところ。だからこの批評において、屋島だけは僕の身体感覚が含まれていない。
今年の日本建築学会作品賞は以下3作品
・屋島山上プロジェクト/周防 貴之(㈱SUO代表取締役)講評文
・霞ヶ浦どうぶつとみんなの家/高橋 一平(髙橋一平建築事務所)講評文
・金沢美術工芸大学/日野 雅司(㈱SALHAUS共同代表/東京電機大学教授)
/川口 有子(㈱カワグチテイ建築計画共同代表)
/仲 俊治(㈱仲建築設計スタジオ共同代表/東京都立大学准教授)
まず、端的に。当然ながら全て完成度が高く、素晴らしい作品だと思った。近年稀に見る、「素晴らしい作品」が集った年と思う。ただし、その「素晴らしさ」には多分な含意がある。時代の転換を痛切に感じる結果でもあった。
建築の『後退』
この3作品は『後退』という言葉をキーワードにして補助線を引くと、共通項が見えてくる。少なくとも僕はそのように整理している。そして、その『後退』とは”進歩していない”という意味ではないということも申し添えておこう。建築の立ち姿、在り方、この世界での振る舞いが『後退』している、という意味だ。詳しく見ていこう。
地形への後退 -屋島山上プロジェクト-
まず、概観して感想を言いたい。僕は実際に現地に訪れていない(行きたい)。であるため、SUOの公式HPの豊富な写真を見ているだけであるが、その空間の豊かさ、視点の多さは非常に伝わり、これは良いのだろうな、という大雑把な感想を抱く。大いにフォトジェニックであろう。ただ、多少の既視感は正直なところ、ないとは言えない。その場に身を置いていないので、下手なことは言えないが。
「地形のような建築」を標榜している新築棟(やしまーる)と、地形の操作によってリノベートされた既存棟(れいがん茶屋)。その2棟は地形というレイヤーによって不可分となり、新旧を統合する、言葉通りの強固な「地盤」の上に立つことになった。美しい物語だ。不定形な輪が人々を包み込み、地形とともに、彼らのアクティビティを幅広く許容する。様々な軒高、天井高があり、一様ではないそれは僕たちの身体性を回復する特効薬だ。非常に洗練された現代の建築と言える。
ただ、れいがん茶屋の改修方法については引っ掛かるところはある。土を盛り、既存の木の柱を埋め、コンクリートで固定化する。いささか暴力的に映るその操作の必然性は地形によって新旧を統合するというものだと理解しているが、実際作られてしまった地形の高さや広がり、その形は設計者の恣意性の塊であろう。「敷地の地形の要請に従って、新築棟をデザインし、既存棟と接続する」というコンセプトだけを聞けば、あたかもそこに恣意性はないように読めてしまう。その覆いから見え隠れする意図が多少気になった。現地を訪れ、「ああ、これしかないな」と思えるような空間の強度を感じられるのであれば、それは全く問題にならないのだが。
まとめると、この建築群は地形が前景化し、地形と建築の応答関係の中で場が作られている。建築そのものは、その場のために舞台装置として後退し、その存在感を薄めている。これは建築の拡張なのか、それとも建築の後退なのか。起きている現象にどう名前をつけるかということだけであるが、僕はこれは地形への後退だと、そう思った。
物語への後退 -霞ヶ浦どうぶつとみんなのいえ-
こちらもまずは感想を述べたいと思ったが、以前の記事で見に行ってすぐの生生の感想を残していたので、詳しくはそちらに。要約すると、空間体験としては非常に新鮮で、出色。「建築」の解体を試みた非常に意欲的な作品で、これを評価しないなら建築界の次の一歩はないとさえ思った。建築学会賞を獲るべくして獲った作品。
これを建築として咀嚼していいのか、咀嚼すべきか迷った。しかし、実物は建築然としている、非常にバランス感覚のある、どちらに転ぶかわからない均衡点としての緊張感のある空間だった。設計者の高橋一平さんは四人称という視点を持ち込み、脱人間主義の建築を目指しているのだ、と僕は整理している。建築というものは、「人間が人間のために行う営為であり、その結実」であると思われるのだが、脱人間主義というイズムを持ち込むと建築そのもの自体の基盤に亀裂が入るであろう。そこには脱人間主義を人間である高橋さんが完璧に遂行できるのか、という疑問とそのジレンマはどうしても残る。その葛藤も含め、建築の定義を揺るがそうとする意欲的かつ挑戦的な作品だ。ただ、そのジレンマの一端として、四人称というものが「神になった建築家の視点」でしかないのではないか、という問いが僕の頭の中をよぎり続けている。
実地での感想は以上にして、僕はこの建築を物語への後退と評したい。高橋さんは「環境としての建築」を標榜していたが、環境というよりかは、これからの建築はこうあるべきだ、という物語の語り手として建築が機能しているように思われた。テーマパーク性をそこはかとなく感じたのも、それが理由であろう。物語の前景化である。やはりここでも建築は後退している。そして、設計者の恣意性はここでも四人称というレトリックを借りて物語の中に隠されている。
システムへの後退 -金沢美術工芸大学-
この建築については見に行った、見に行ったが覚えていない。良い意味で記憶に残らない建築だと思っている。非常に透明だと思った。いや、本当にいい意味で言っている。特徴的な空間や形は表出されていない。アートプロムナードのプラザもリズムの中のスタッカートのように歌われている。ひたすら「心地よい空間」「適切な機能の空間」が巧みに配置されている。綺麗な街のような建築だ。街だから記憶に残りづらい。透明である。学生の活動-アクティビティ-が目立ち、主役は学生や先生教授、そこで創作をしている人々とその創作そのものとして映る。人間の活動は前景化している。そこで建築は単に背景なのではない。その活動を支える透明なシステムとして一歩引いている。これを僕はシステムへの後退と呼ぶことにした。
この透明性は何によって獲得されているのか。7人の建築家の共同設計による、作家性、恣意性の希釈なのか。もしくは、7人の丁寧な合意の手続きによって成し得た、総体としての透明性なのか。僕は後者であると考えている。恣意性の希釈という偶然による産物であるなら、統制が取れ過ぎている。
実体としてだけではなく、設計手法としても透明性の獲得という一つの目標を達成するためのシステムが組まれたのだと、僕は思う。棟ごとに担当を決めずに内部と外部で担当を切り分け、一つの事務所が棟を横断するようにファサードデザインを手掛けたのも、そのシステムの一端であろう。このシステム化が成し得たのはそれぞれの事務所の力量と、良好な関係性が背後にあったのではないか。その点で、再現性は薄いかもしれない。
また、最後にふと思ったことであるが、同じくグリッドを基盤とした建築としてピーター・メリクリを思い出す。しかし、メリクリの建築にはどこかチャーミングな身体性がある。一方、金沢は徹底して透明である。この差は思っている以上に大きい。
建築の跡地 そこに何が残るのか
3作品を『後退』という補助線を引きながら、各作品を見てきた。この3作品に共通する『後退』——地形、物語、システムへの背景化は、現代建築が「建築家による過剰なコントロール」を反省し、環境や人間、他者との関係性に寄り添おうとした誠実な努力の結晶であることは間違いない。パトロンを失い野武士が野に降りてきてから、大震災やパンデミックを経て、建築の無力さばかりを眼前に叩きつけられてきた僕たちの歩んできた道の一つの到着点である。建築学会賞の全ての作品が、『後退』をしているというのはその潮流が広く浸透し、一般化したことの証左であろう。そして、そのこと自体に僕は反論はない。歴史の中での正当な進歩の結果だ。進歩することで、建築は「後退」してきた。では、後退した跡地には何が残るのであろうか。建築の残り香はそこにあるのだろうか。それが問われている、と僕は思う。結局、「建築とは何か」という問いに存在論を巻き込みながら戻ってきた。
臆病な僕は何度もエクスキューズしてしまうが、再度、言っておこう。僕は今回の3作品についてダメ出しをしているわけでも、ケチをつけているわけでもない。全て素晴らしい作品だと思っている。ただ、3作品が突きつけてきた問いについて、『後退』という補助線の先に見えた問いについて、自覚的になるべきではないか、と言いたいのだ。
建築が後退し、建築以外のものが前景化すること自体、否定しない。それは古来から建築が持つ一つの側面であったからだ。しかし、建築が後退しきって、とうとう単なるメディアになってしまったとしたら、建築はどこに行ってしまったのだろうか。建築が建築たりうるためのコアは霧散してしまうのだろうか。その問い/おそれを持つこと。建築が存在として後退しないための堤防を持つこと。その思いを強くしたのだ。このまま建築の後退/メディア化が進むとは思えない。それはきっと建築の自死だ。どこかで揺り戻しが来ると思うが、それが今なのか、それとももっと建築の存在が希薄になってからなのか。わからないが、建築がもう一度、自ら立とうとする時代が来る。そう確信している。ルネサンスのように。その下準備をしておきたい。そう思ったのである。
最後に、僕の友人がいつかぼそっと呟き、僕の心にずっと残っている些細な言葉を結びとしたい。
「ただ良い建築を作るだけは、もうダメなのかな」

















































