続・建築における《行けない場所》について

今から、至極当たり前のことをつらつらと冗長に言いたいと思います。

 

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これは、日本のどこかに実在する住宅の断面図だ。

 

もし、この家でひとりの赤ん坊が生まれて、18歳になるまで両親がこの家の外に出さずに育てたとする。彼はずっと2階の天井がくねくねしている様を見ながら生活をするわけだ。ここで問いを立てる。

 

「彼はこの建築(住宅)を把握しきれているだろうか」

 

18年間もここで生活しているのだから、一見理解しているだろうと思われる。彼は得意げに「この吹き抜けがとても心地いいんだ。朝方にはこの天井の曲面に朝日が差し込んで、その陰影の素晴らしさといったら……」なんて語り出すかもしれない。

 

そこで意地悪な人が彼を外に連れ出して外から自分の家を眺めさせると、なんと三角屋根なのである。(もしかしたらショックを受けるかもしれない)

彼に透視能力があったら「ああ、三角だよね、前から知ってたよ」と言うかもしれないが、そんな人は稀だ。

そう、外部から見た形と内部から見た形が違うことは建築には往々にしてある。

 

逆を言えばお客としてこの家に招かれた人は、この家の前に立った時の印象と、内部で感じる印象はまったく違うだろう。

 

何が言いたいのかと言うと、建築を把握しているか否かとは、「内包された空間と、外周をすべて鑑賞した後、頭の中でその建築を再構築できるかどうか」と言える(当たり前だ)。

 

ここでまた岡崎乾二郎さんの言葉を引用する。

「建築は演算過程の中にのみしか存在しない」

上記を端的に述べた良い言葉だ。やはり岡崎さんは良いことを言う。

 

建築とは我々の頭の中にしか存在しない。目に見える建物は建築を認識するためにこの世界に降り立った媒体でしかない。私たちは言葉を認識し、詩を理解するように、建物を認識し、建築を理解する。

 

そして、ポシェ(建築における《行けない場所》)はそのためのキーストーンであり、キーワードなのである。

雑記5

最近考えたこと

 

コンペをやろうと思って、紹介しているサイトを覗いた。その中に「愛の家」というテーマで募集しているものがあり、「愛とはなんぞや」と中学生の時のあの気恥ずかしい気持ちを抱きながら考えたりした。

 

今のところの自分の結論は、愛とは、「絶対に分かり合えない他者を、理解しようと努める姿勢のこと(ただし、決して分かり合えないということを認めていなければならない)」に落ち着いたのだけれど、これは昔からずっと自分の中でなんとなく感じていたことをただ言葉として書き起こしたに過ぎない。(恥ずかしっ)

 

まあこれは現状の結論であって、正しいと言えるかどうかはわからない。2日後には変わっているかもしれない。(同時に絶対的な正しさなどなく、人は暫定的に正しいと思った規範に準じて思考、行動するしかないということも忘れてはならないと思う)

 

以下に、その時考えてメモしたものの続きを載せる。

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その姿勢の媒体として、言語や身体言語、モノそれ自体が喚起されうる

愛の反対は無関心であると考える


死とは「内外を規定する境界が破断すること」

他者とは「自らの外に存在する、すべての事象、事物を指す」


すなわち言い換えれば愛とは、「自らを規定する内外の境界を内側から穴を開けようとすること、自らが望む部分的な死に近い」


自らの領域に穴を開け、自らの領域に他者を招き入れること、そして、自らの領域に同時に存在しうる事物を認識し、それを受け入れること、つまり、自分ではどうしようもないことに正対し、許容すること


何かを愛するということは半死半生の状態に近い

ただし、何かを愛している時、同時に自らの境界も認知しなくてはならない


愛とは他者との同化ではない(それは自らの境界を無視した思い込みに過ぎない)

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お見合いで出会い、一般に恋愛と呼ばれるような交際期間を経ずに結婚して、それなりに幸せに添い遂げる夫婦というものは多くいるだろうと思うが、おそらくそれは、相手の中に自分の力で変えることができない部分がある、というある種の諦観の上で成り立っている。

 

もちろん他者と長い期間一緒にいるためには相手も自分も変えなくてはいけないところが多々あるが、お互いが納得し、やっていけると思えるような均衡状態に到達した時、それこそが愛のような気がする。

 

流石にここまで書いてかなり恥ずかしくなったのでこれ以上わけのわからないことを言うのはやめますが、まあそんなことを考えたわけです。

恥ずかしすぎて公開することを逡巡もしましたが、えいや!っという気持ちで筆を取りました。

 

今後、改めて考えて間違ってるなとか、やはり恥ずかしすぎると思ったらこの記事は消します。

思考実験

はてなからメールが来て、このブログを始めてから半年経ったと知った。

知らず知らずのうちにそんなに時間が流れたのか、光陰矢の如しだ。

ひたすら撮った写真を載せるだけになっているけれど、もともとは忘れっぽい自分のために思ったことを残そうとこのブログを始めたので目的がすり替わっている。

でも、これからフィルムカメラを始めたいなと思った人が、なんの因果かここにやってきて、カメラの写りの違いや、こんな風に撮れるんだというのを感じてくれたら楽しいので変わらず現像したら載せるつもりだ。

フジカラーが値上げを決めたらしく、ショックを受けている。フィルムカメラ愛好家はフィルムの生産が終わってしまうともはやほぼなにもできない。フィルムカメラ好きの人口が増えてくれればそれだけ楽しい時間が伸びる可能性が高くなるので嬉しい。ということでみんなフィルムカメラやってみましょう。現像代等ランニングコストはかかるけど、カメラ本体はちゃんと探せば安く手に入りますよ。

 

ここから先は備忘録になるので文体が変わります。

 

山手線に乗ってふと思った。「地面低くね?」

電車は傾斜に弱いので、出来る限り一定の高さを保って走る。そのため、地形によって地面(グラウンドレベル)からの高さは場所によってまちまちになる。

丸ノ内線は四谷駅で地下から突然地上に顔を出すし、銀座線なんて渋谷駅で高架を走っている。なんと!地名も両例とも谷が付く。

なにが言いたいのかというと、普段なにも気にせず(地上で)生活している(と錯覚している)自分の目線の高さと、実際の地面に差があるなと車内から道を歩く人を眺めて思ったのだ。

目黒駅は山手線に乗るとき、階段を降りる。しかし、五反田駅で降りるとなんとそこは高架になっているのだ。一度降りて地面より低い位置から電車に乗ったはずなのに、電車から降りると地面より高い場所にいる。こんなのワープじゃん。

まあ、昔から都市に棲む人は地形や土地、地面というものに対する感度が落ちるなんて言われていたけど、そんな古典的な気づきがふと降りてきたというわけです。

思えば、人工的な構造物の中でウロウロしている時に、現在地の高さなんてあまり気にしない。あー、階段があるな、登るのやだなくらいしか思わないことが多い。

 

ここで思考実験というか、想像してみようと思う。

 

ある男がいるとする。彼は都心のそれなりにいい企業に勤め、妻と子2人を養っている。まあ家族の人数なんてどうでもいい。防犯を考えて都内のマンションの3階に住んでいる。悩みは上階や隣の住人の生活騒音。そのせいもあるのか家族は冷え切っていて、忙しい仕事から深夜帰ってきても迎えるものはおらず、用意された余り物をチンして食べ、寝て、朝早く仕事へ行くだけの毎日、そんな男を仮定する。(多少設定が古臭い気はしなくもないが、まだ絶滅してはいないだろう)

彼の勤めるオフィスは都心の高層ビルの10階にあるとしよう。8時に出勤し、22時過ぎまで働く仕事人間の彼は、24時間のうち、ほぼ14時間、睡眠時間を考えれば1日の8割弱はそこにいることになる。

となると、彼にとって最もよくいる場所は地上から30mの高さだ。すなわち、彼にとっての水平線は地上30mに設定されうる。(ここはちょっと無理があるかも)

窓の外を見れば、頭上には天空にオフィスを構えるより良い(とされる)会社が見える。おそらくそこはもっとここより日当たりがいいのだろう、と彼は思う。家庭に居場所のない彼にとって、息ができるのはこの地上30mにいる時だけだ。下階に、3階なんて高さに降りてしまうと息が続かない、海底だから。

彼は海底で寝泊まりして、地上まで息継ぎのために浮上してくる、そんな毎日。

 

突飛な妄想だけれど、そんなことを考えた。

都内にはまた高層ビルがまた増えるという。高層マンションも増え続けるそうだ。

海底暮らしの僕からすると、縁がないことなので勝手にしてという話なのだけど、もし、そんな生活になったとしたら耐えられないなと思う。

これは簡単に言えばヒエラルキーの物理的な可視化っぽい。より良い生活というものは、いい会社(大抵高層ビルの上階にある)に勤めて、いい家(不思議なことに高層マンションの上階の方が家賃が高い)に住むということになっているからだ。すなわち、そんな環境にいる人は、常に外を見た時自らの地位を否が応でも思い知る。なかなかつらい生活だろうなと思う。頑張ってほしい。ただ、海の底も楽しいよ、とだけ言っておく。