雑記5

最近考えたこと

 

コンペをやろうと思って、紹介しているサイトを覗いた。その中に「愛の家」というテーマで募集しているものがあり、「愛とはなんぞや」と中学生の時のあの気恥ずかしい気持ちを抱きながら考えたりした。

 

今のところの自分の結論は、愛とは、「絶対に分かり合えない他者を、理解しようと努める姿勢のこと(ただし、決して分かり合えないということを認めていなければならない)」に落ち着いたのだけれど、これは昔からずっと自分の中でなんとなく感じていたことをただ言葉として書き起こしたに過ぎない。(恥ずかしっ)

 

まあこれは現状の結論であって、正しいと言えるかどうかはわからない。2日後には変わっているかもしれない。(同時に絶対的な正しさなどなく、人は暫定的に正しいと思った規範に準じて思考、行動するしかないということも忘れてはならないと思う)

 

以下に、その時考えてメモしたものの続きを載せる。

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その姿勢の媒体として、言語や身体言語、モノそれ自体が喚起されうる

愛の反対は無関心であると考える


死とは「内外を規定する境界が破断すること」

他者とは「自らの外に存在する、すべての事象、事物を指す」


すなわち言い換えれば愛とは、「自らを規定する内外の境界を内側から穴を開けようとすること、自らが望む部分的な死に近い」


自らの領域に穴を開け、自らの領域に他者を招き入れること、そして、自らの領域に同時に存在しうる事物を認識し、それを受け入れること、つまり、自分ではどうしようもないことに正対し、許容すること


何かを愛するということは半死半生の状態に近い

ただし、何かを愛している時、同時に自らの境界も認知しなくてはならない


愛とは他者との同化ではない(それは自らの境界を無視した思い込みに過ぎない)

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お見合いで出会い、一般に恋愛と呼ばれるような交際期間を経ずに結婚して、それなりに幸せに添い遂げる夫婦というものは多くいるだろうと思うが、おそらくそれは、相手の中に自分の力で変えることができない部分がある、というある種の諦観の上で成り立っている。

 

もちろん他者と長い期間一緒にいるためには相手も自分も変えなくてはいけないところが多々あるが、お互いが納得し、やっていけると思えるような均衡状態に到達した時、それこそが愛のような気がする。

 

流石にここまで書いてかなり恥ずかしくなったのでこれ以上わけのわからないことを言うのはやめますが、まあそんなことを考えたわけです。

恥ずかしすぎて公開することを逡巡もしましたが、えいや!っという気持ちで筆を取りました。

 

今後、改めて考えて間違ってるなとか、やはり恥ずかしすぎると思ったらこの記事は消します。