続・建築における《行けない場所》について

今から、至極当たり前のことをつらつらと冗長に言いたいと思います。

 

f:id:tjhi:20190603134442j:image

これは、日本のどこかに実在する住宅の断面図だ。

 

もし、この家でひとりの赤ん坊が生まれて、18歳になるまで両親がこの家の外に出さずに育てたとする。彼はずっと2階の天井がくねくねしている様を見ながら生活をするわけだ。ここで問いを立てる。

 

「彼はこの建築(住宅)を把握しきれているだろうか」

 

18年間もここで生活しているのだから、一見理解しているだろうと思われる。彼は得意げに「この吹き抜けがとても心地いいんだ。朝方にはこの天井の曲面に朝日が差し込んで、その陰影の素晴らしさといったら……」なんて語り出すかもしれない。

 

そこで意地悪な人が彼を外に連れ出して外から自分の家を眺めさせると、なんと三角屋根なのである。(もしかしたらショックを受けるかもしれない)

彼に透視能力があったら「ああ、三角だよね、前から知ってたよ」と言うかもしれないが、そんな人は稀だ。

そう、外部から見た形と内部から見た形が違うことは建築には往々にしてある。

 

逆を言えばお客としてこの家に招かれた人は、この家の前に立った時の印象と、内部で感じる印象はまったく違うだろう。

 

何が言いたいのかと言うと、建築を把握しているか否かとは、「内包された空間と、外周をすべて鑑賞した後、頭の中でその建築を再構築できるかどうか」と言える(当たり前だ)。

 

ここでまた岡崎乾二郎さんの言葉を引用する。

「建築は演算過程の中にのみしか存在しない」

上記を端的に述べた良い言葉だ。やはり岡崎さんは良いことを言う。

 

建築とは我々の頭の中にしか存在しない。目に見える建物は建築を認識するためにこの世界に降り立った媒体でしかない。私たちは言葉を認識し、詩を理解するように、建物を認識し、建築を理解する。

 

そして、ポシェ(建築における《行けない場所》)はそのためのキーストーンであり、キーワードなのである。