雑記15

■自律的な建築

 

建築は不思議なものだなと最近改めて感じる時間が増えた。

建築は、道具でも作品でも単なる物体でもない。

 

建築は建築でしかありえない。

 

なんか変にポエティックな言い方になってしまったけれど、簡便に言えば建築は自律的であるべきだという気持ちが日に日に強くなっていく。

学生時代からそんな気持ちは変わらずあるのだけれど。

 

建築は道具足り得るべきか

 

建築は道具ではない、というのが僕の持論なのだけれど、道具的な側面を持つとは思う。

でも人間のために人間が作り上げるものなのに、道具ではないと思うのだ。

ここに一つ矛盾がある。(自覚している)

 

以前の雑記でカメラは道具ではなく他者であると書いた記憶があるが、それが建築にも当てはまる。

道具というものは主体を持たない。主体はそれを用いる人間であり、道具は機能だけを抽出され手段となる。

 

建築はどうもそうだとは思えないのである。カメラ同様、建築も我々に語り掛けてくるし、「使いやすさ」という価値以外のものを確実に孕んでいる。

(というか、我々の周囲にある無機物すべて、我々に語り掛けているのである)

 

もっと極端に端的に言えば、「この世のすべてのものを主体を持ったものとしてとらえよう」ということだ。

人間中心主義なのか?というかオブジェクト指向存在論?(勉強不足で何もわかっていないので、おそらく間違えている)なのか?勉強します。

 

自分で撮った写真を眺めたときに思うのだけれど、「世界のすべてのモノを平滑に、等しいものとして見たい」という気持ちは僕の中に確かにある。

いいなと思う自分の写真の中に、何も主題にしていないような写真があったりして、そうそう、そういうことって思ったりするのだ。

 

建築を考えるときに使いやすさとか快適さとかを無視して「芸術作品的」なものをつくるべきだというわけではない。

建築はそもそも使いやすさ、快適さという性質を持っているのだから、建築を考えるときに自動的にそれは網羅されている。

人間、および社会に要請されただけの建築ではなく、建築が建築足り得るものを作りたいなということである。

 

結論:自分の言葉でまだ話せないので、もっと勉強しよう!

 

 

 

■おにぎり

 

電子の海で誰かがつぶやいた、

「おにぎりを2つ買うときは違う種類を選ぶものだと思っていたけど、別にそんなルールないんだった、そうしたければ同じおにぎりを2つたべてもいいんだった、こんなことに気がつくまでに28年もかかってしまった。」

 

という書き込みを見て、むしろ好きな具(おかか)を複数買ったりする自分を恥じた。

 

 

 

■コンビニって

 

行く前にはあれ買おうこれ買おうって思うのに、入った瞬間に何も買いたくなくなったり、何買うかわかんなくなったりしませんか?

 

 

 

■最近

 

なぜかブルーハーツをよく聴く。

聴き始めたきっかけは親が車でよく流してから。

なにか伝えたいことがあるひとの歌はエネルギーがある。

おすすめはナビゲーター。カネコアヤノもカバーしてる。

 

 

 

■イベント

 

平易に続いていく日常の中で、祭りだとか、旅行だとか、ビアガーデンだとか、何かしらのイベントを課して僕たちは何とかやっていると思うのだけれど、ハレとケですね。

 

でも実はずっと心に引っかかるようなものっていうのは、なんでもないしょぼくれた日に何気なく言われた一言だったり、疲れた帰り道の道端での発見だったりする。

 

そういう小さなものの積み重ねで僕たちは生かされているなあとよく思う。

僕たちに必要なのは、そんな機微に反応できる心と、余裕だと思う。

 

なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せをなるべくいっぱい集めるし、幸せは途切れながらも続くのですよね。

 

 

 

 

※文章を書くということをずっっっっっとさぼっていたので、もともと下手な文章が、本当にへたくそになってしまったので、リハビリをしたいなと思っています。ちょくちょく文章のブログも載せるかもしれません。お目汚し。