雑記4

前回の記事から3ヶ月弱経った。

すなわち写真が抽象だと気付いてから3ヶ月、案の定カメラにハマった。金のない私は足繁くジャンク屋やら骨董市に通い、使えそうなカメラを拾っては素人修理で直し、試写する毎日である(もちろん本業(?)の論文の構想も練っている)。ただ、元号が変わるまではカメラ漬けを楽しもうと思う。

 

なんとこの3ヶ月で手に入れたカメラは総勢10台になった。運がいいのか、カメラがいいのか、部品取りとして買ったもの以外はすべて完動品か、ちょっとした修理で使えるものだった。ふと「自分の目利きがいいのでは」と思ったこともあるが、どうしようもない品を掴んでしまった時後悔しそうなのでそういうことにはしないでおく。欲望は尽きないもので10台も手にしたのにまだ欲しい機種がある。恐ろしい。沼とはよく言ったものだ。

 

そんなこんなで初心者ながらカメラ片手に撮って歩いているのだが、自分の写真はなんとまあ色気がない。相手にしているのが建築、街中のモノで、人物を撮っていないので写真に動きがないのは当然なのだけど、どこか寂しげなのである。良く言えば静かな写真と言えるかもしれないが、まあ自分が撮ったんだからそうなるな、と思い大して落胆はしていない。ただ、満足もしていないので精進あるのみだ。

 

写真を撮ったり、カメラをバラしたりしていて、カメラがブラックボックスじゃなくなることに悦んでいる自分を発見した。どのようにして写真というものが生まれるか(露光時間、絞りをどうやって決めるか、ISOの変更にはどうやって対処するのか)の装置、機構を眺めているだけで面白い。写真の良し悪しはほぼレンズで8割がた決まるので、大したことではないかもしれないが、私にはそれが大切だった。モノの力は偉大である。

 

そしてもう一つ嬉しかったのが、他人との距離だ。カメラは本当にちょうどいい。モノとしてのカメラの立ち位置はメディアだと思い至った。(すべての道具に言えることだが)作り手の意思、決定、苦難、いろいろなものが垣間見える。これはまさしく情報の媒体だ。しかも(私にとっては)情報過多な人間というものを抽象変換して薄めてくれる親切機能付きである。私は人間の純粋たる意思や善意、(時には悪意も)が好きだ。そんな私にとってカメラはネットもテレビも映画も敵わない。この瞬間、カメラは世界を抽象化する道具として、かつ同時に、人間を抽象化して伝える媒体として、目の前に立ち上がってきた。