単純に面白かった。
久しぶりにカメラ片手に散歩をしようと思ったのだけれど、いざどこに行くかとなるといつも迷う。
偶々、北千住の方で用事があったので帰り道に浅草に立ち寄って散歩しようということになった。
ふらふらと上野駅の入谷改札を出て、東上野のあたりを抜けて浅草まで汗ばみながら歩いたのだけど、道中謎の機械が電信柱の根本に落ちていたりどこにつながるかわからぬ階段があったりと、わくわくさせてくれるものが落ちていた。
浅草に着くと、外国人旅行客、(僕も含めた)日本人の訪問者、地元の商店の人たち、人力車の兄ちゃん……まあ多種多様の人たちが渾然一体となって小さいスケールに詰め込まれていて、これまた面白い。
かつてよく行ったバー(あそこはバーなのか?)に行ってみたら隣のおじちゃんが話しかけてくれて、話せば話すほどそのおじちゃんの正体が不明になっていくのも楽しかったが、それはまた別の話。
そんなパワーに溢れた浅草で、わけのわからないものをパシャパシャと撮っていたのだけど、路地を撮ろうとするといつもスカイツリーが画角に入ることに気づいた。
それが面白くて、路地に差し掛かるたびに画角に入るスカイツリーを撮っていたのだけれど、撮っているうちに少しスカイツリーが不憫に思えた。
パリにエッフェル塔が出来た時、住人の反発が強く、「パリのどこからでもエッフェル塔なんぞが見えてしまうのはムカつくんだが!」とか言いつつも、「パリの中でエッフェル塔を見ずに済むのはエッフェル塔のてっぺんだけだ」と結局登っていた天の邪鬼なパリジャンたちの話を思い出した。今ではすっかり昔からあったかのように名所になって愛されているけれど。
まあ話はまったく違うから浅草の人たちがスカイツリーをどう思っているかは知らない。でも僕にとってはスカイツリーの浅草における見え方はなかなか良いと思った。存在感はあるけれど、圧迫感はない。
そして、「見る・見られる」の関係としてはちょうどいい距離感だなとも思った。
ヒッチコックの『裏窓』は向かい合うアパート間で起こる事件を描いたもので、窓の向こうの部屋で誰かもわからぬ他人の行動を「目撃」できる距離感だから物語になった。
今回のスカイツリー/浅草の街となると人の姿は見えない。街からは展望室の窓サッシの格子、スカイツリーからはせいぜい3階建の建物とその間を縫う小道が見えるだけだ。でもスカイツリーくらいの巨大建造物となるとそれくらいがちょうどいい気がした。
僕は遠くに見える展望室を眺めながら(たしかに「見る」より「眺める」と言った方が最適かもしれない)、同時に「登りたい!」とせがむ子どもを「値段が高いからまた今度ね」とたしなめる母親と、それを尻目に思い出になるからとその高い入場料を払って登るカップルを目撃する。
それは実際にそこで起こっていることではなく、僕の記憶の中だったり、経験の中から引っ張り出された風景であるけど、たしかにそこで起きた/起きている出来事でもあるのだ。
展望室にいる人たちは眼下に街並みを眺めながら「この中には下手の横好きだけどカメラが好きで、久しぶりに浅草で撮っているもの好きな男もいるんだろうな」と思っているかもしれない。
大きいということは、距離をとれるということであり、距離をとれるということはそこに即時的な「見る」「感じる」という関係よりも外側の「想像する」いう関係性が発生しうる。
スカイツリーがなかったときの浅草の空を想像して、その可能性が生活の中に挿入された今の方が豊かに思えるのは、訪問者としてしか浅草に居ることのできない自分のエゴのようなものだけど、たしかに良いなと思えた。そして、大きいもの、シンボルというものはそれくらいの役割で十分なのじゃないかとも。
別にその街に誇りを持つためのシンボルでも、ランドマークとしてのシンボルでもなく、シンボルとして大事なのは生活の中に上記のような妄想とも言えるかもしれない想像の契機を常に潜ませることができる、ということなんじゃないかなんて思ったのだ。