雑記3

新年の空気は好きだ。不思議なことに正月は毎年晴れているような気がする。子どもの頃一度だけ雪の正月に遭遇したことがあったように思うが、正月は晴れのイメージが強い。

 

写真をもう一度撮り始めようと思った。3年ほど前か、少しだけ凝った時期があった。知り合いのカメラマンに薦められたなかなか良いコンパクトデジタルカメラを持っているが、使いこなせてない上に、贅沢な私はデジタルカメラの平滑な画よりもザラついたフィルムカメラの質感が好きで、専ら写ルンですを持って街や海に出ては不器用に、かつ、適当にシャッターを切っていた。

 

祖父から貰ったコニカミノルタのフィルム一眼も持っていたのだが、どうやら駄目になってしまっているらしく、金のない私は修理もできず写ルンですしか選択肢がなかったわけである。

 

絞りも露光時間もISOもいじれない写ルンですだが、審美眼を持たない私はチープなざらつきだけで満足した。しかし、それも一過性のもので、それからというもの建築を見に行く時以外はカメラなぞ持ち歩かなくなってしまった。

 

その理由は、撮影後SNSでフィルターをかけて好みの質感にできてしまうことに多少の嫌気がさしたのだ。加工せずにそのままで勝負した方が良いのではないか、と思い込んでいた。フィルムカメラの構造上、機材の特性上避けられない質感なら許容できたのだが、後付けの事後的な加工に対して言い得ぬ反感を持っていたのである。端的に言えば、天邪鬼だった。そして、写真というものを写実的なものだと盲信していた。(そんなわけもないのだが)

 

たしかに、写真は絵画に比べたら「写実的」かもしれない。「目に見えたモノ」を機械的に「切り取る」わけであるから。表現もそうである。絵画に比べ、細部まで繊細に描写することができる。また、表現者の意図によって色彩や筆のタッチなどを変更できる絵画に比べ、写真はその過程がある種のブラックボックス的に私には思えてたのだと思う。ワンボタンで風景を写すことのできる装置はまだ私にとって魔法だった。21世紀に生きていながら。

 

そんな私の絵画と写真の類似と差異に関する壮大な勘違いについてはさておき、最近写真は写実ではないと気づいたのだ。視覚と認識の違いにようやく気づいた。「目に見えるものがすべてではない」という言葉があるが、それは精神的な、ともすればスピリチュアルな説話のことかと思っていた。

 

そうではなく、世界にどうしようもなく存在してしまう「モノ」、そして世界そのものを私がどのように認識しているのか、そのプロセスを説いたものだった。

 

言語化するにはまだ時間が足りぬので、どういうことかは書かないが、写真は写実でも限りなく近い現実でもなく、抽象で虚構だった。すなわち、絵画と写真は兄弟だった。

 

そんなことは歴史の賢人たちがとうの昔に発見し、提示していたことだが、その片鱗を掴めた(気がしている)。

 

と思うと写真を撮ることはそれほど気難しいことではなく、右手も軽くなるというもので、三ヶ日はカメラが相棒になったのだ。もちろん、私も歳をとったのか、親戚家族の笑顔を残しておきたいと思ったのもあるが。